■ 主なプロフィール 伊藤倫邦(いとうみちくに) 鎌倉 今泉 | |||||
・昭和18年東京大田区に生まれる ・昭和21年鎌倉市山ノ内の住民となる ・昭和25年~31年御成小学校入学・卒業 ・昭和31年~34年第二中学校入学・卒業 ・昭和42年個人会社設立 ・昭和48年株式会社設立 鎌倉産業㈱代表取締役 ・昭和60年事業拡大により神奈川産業㈱に 社名変更。 *(山と渓谷 ウッディライフ掲載記事) 現在に至る *主な活動 ・鎌倉第5団カブスカウト隊長(1978年~88年) ・綾瀬青年会議所(JC)活動(1980年~88年) ・青年経済人倶楽部副理事長 ・鎌倉深沢商工クラブ会員 ・海上保安庁友の会会員 ・槐(えんじゅ)の会特別会員 ・「かまくら緑の会」ボランティア活動、会長 ・鎌倉プロバスクラブ、会員 ・新日本舞踊、観月流、美雪会、顧問
・鎌倉市ゴルフ協会、理事
etc.
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~出会いを大切に~ |
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私が生まれたのは、終戦まであと2年の昭和18年、東京大田区で生まれました。 戦後、 すぐに鎌倉、山ノ内に移り住み、御成小学校、第二中学校へと進みました。当時、日本は、 東京オリンピックに象徴されるように、今思えば、誰もが我慢して、頑張って働けば明るい 未来が約束されていると思える良き時代でした。 数々の厳しい現実が待ち受けていましたが、一生懸命仕事をしました。運良く、鎌倉の地 で昭和42年、24歳の時にまがりなりにも起業することができました。 以来、多くの皆様に助けられ、家族にも恵まれ無事に過ごして参りました。これもひとえに 鎌倉の地域がもたらしてくれた素晴らしい贈り物だと感謝しております。 お陰さまで、通常では定年を迎えての年齢ですが、小さいながらも鎌倉の地で経営者と して46年目、年月を重ねた皆様と同じように、数々の試練に耐えてこそ知り得た経験や 知識、思いやりの心などが、地域の皆様のために少しでも何かのお役に立つことは出来 ないものかと考えています。 これからも、皆さんと一緒に、世界に誇る歴史のある、自然豊かな、花々に彩られた故郷、 より素晴らしい「私たちの鎌倉」を保存、継承、育てていく事ができればと思っています。 |
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(付録) | |||||
家族:妻、子供3人、孫2人、愛犬2匹 猫1匹 血液型:A型 趣味:釣り、園芸、ゴルフ etc. | |||||
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*先祖(曽祖父):伊藤雋吉(いとう としよし) | |||||
(ウィキペディア等一部編集抜粋) | |||||
天保11年(1840)、田辺藩手代町(現・舞鶴市宮津口)で生まれ育ち、大村益次郎門下から 明治2年(1869)海軍に入り、「第一丁卯丸」の測量主任として活躍。その成果により日本初 の海図が同5年(1872)に作成されました。 同8年(1875)年11月から翌年4月にかけて、海軍が行ったはじめての遠洋航海の艦長とし て、練習艦「筑波」の指揮をとり太平洋を横断。帰路ハワイに寄港し、カラカウア王に謁見 するなど親善に努めたことから、その後の日本とハワイ間の移民渡航条約が締結され、 日本人の海外移民が始まっています。 明治4年(1871年)、「春日」、「日進」、「筑波」等の艦長を歴任した後、海軍兵学寮に 勤務。同次長・監学課長等を経て再び海上勤務に戻り、1878年(明治11年)には回航さ れたばかりの最新鋭艦「金剛」の艦長に就任した。 この間、水路測定に功が有り、その後は海軍兵学校長、海軍次官、海軍参謀部長(後に 参謀部長の役職名は海軍軍令部総長)を歴任した。 1882年(明治15年)には、海軍少将の身分のまま共同運輸会社社長に就任。海軍中将 まで昇進した後、1892年、政界に転じて貴族院勅選議員となる。1895年(明治28年) 8月20日、日清戦争における軍功により男爵を授けられた。 詩文に長じ、書は巧みで艦名の文字いろは四十八文字などを残した。ちなみに、その一部 は現在海上自衛隊でも使われている(空母「赤城」の「あ」と「き」が、護衛艦「たかつき」 の「か」と「き」として継承されている)。 舞鶴出身で爵位を受けたのは最後の丹後田辺藩主牧野弼成(すけしげ)と伊藤の2人だけ であり、地元では稀代の偉人として尊敬されているという。 墓所は品川区海晏寺。 |
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伊藤雋吉ゆかりの品 鎮西艦長から贈られた大砲の置物。 提供:伊藤雋吉顕彰会 |
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伊藤雋吉(いとう としよし)プロフィール | |||||
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*舞鶴市HP (一部編集抜粋) |