伊藤雋吉(いとう としよし) 「男爵」 勲功 丹後田辺藩士 京都府 舞鶴市 


 *先祖(曽祖父):伊藤雋吉(いとう としよし) 伊藤倫邦(いとうみちくに) 鎌倉 今泉
(ウィキペディア等一部編集抜粋)
 天保11年(1840)、田辺藩手代町(現・舞鶴市宮津口)で生まれ育ち、大村益次郎門下から
明治2年(1869)海軍に入り、「第一丁卯丸」の測量主任として活躍。その成果により日本初の
海図が同5年(1872)に作成されました。

 同8年(1875)年11月から翌年4月にかけて、海軍が行ったはじめての遠洋航海の艦長とし
て、練習艦「筑波」の指揮をとり太平洋を横断。帰路ハワイに寄港し、カラカウア王に謁見するな
ど親善に努めたことから、その後の日本とハワイ間の移民渡航条約が締結され、日本人の海外
移民が始まっています。

 明治4年(1871年)、「春日」、「日進」、「筑波」等の艦長を歴任した後、海軍兵学寮に勤務。
同次長・監学課長等を経て再び海上勤務に戻り、1878年(明治11年)には回航されたばかりの
最新鋭艦「金剛」の艦長に就任した。

 この間、水路測定に功が有り、その後は海軍兵学校長、海軍次官、海軍参謀部長(後に参謀
部長の役職名は海軍軍令部総長)を歴任した。

 1882年(明治15年)には、海軍少将の身分のまま共同運輸会社社長に就任。海軍中将まで
昇進した後、1892年、政界に転じて貴族院勅選議員となる。1895年(明治28年)8月20日、日清
戦争における軍功により男爵を授けられた。 

 詩文に長じ、書は巧みで艦名の文字いろは四十八文字などを残した。ちなみに、その一部は
現在海上自衛隊でも使われている(空母「赤城」の「あ」と「き」が、護衛艦「たかつき」の「か」と
「き」として継承されている)。

 舞鶴出身で爵位を受けたのは最後の丹後田辺藩主牧野弼成(すけしげ)と伊藤の2人だけで
あり、地元では稀代の偉人として尊敬されているという。 墓所は品川区海晏寺。


伊藤雋吉ゆかりの品 
 鎮西艦長から贈られた大砲の置物。
提供:伊藤雋吉顕彰会
「男爵」 勲功 丹後田辺藩士 日本の華族制度(1869年~1947年)
*舞鶴市HP (一部編集抜粋)
金剛 (戦艦)